フロイント・コール草創期の記録

あれからずいぶん時が経ってしまいました。
本文中にサイト管理人(池)がいろいろ働いたように書かれていますが、実はすっかりサボっていました。
ここにおわびするとともに、改めて収録し直します。(2017年8月30日:サイト管理人)

平山さん訪問記 2009.11.1 

文章(テープ起こしも)佐野 米子 (1967年入団)

はじめに

2009年11月1日、私たちは山科の平山さん宅へ伺いました。
天気予報では午後から雨ということで、伺ったときにはすでに泣き出しそうな空でしたが、 お話ししているうちに、録音に雨音がしっかり入っているほどの本降りになりました。
Mr and Ms Hirayama 私たちが伺ったのはご自宅のそばの娘さんご夫婦のおうちでした。
娘さんがお嬢さんと一緒に作ってくださったケーキを頂きながら、いろいろなお話を伺いました。
何度も、「私らはもうトシがトシなのでいつ死ぬか分からない、残せる間に…」とおっしゃりながら、 でもとてもお元気にお話をしてくださいました。
当初、いわゆるテープ起こしをして提供するつもりでおりましたが、諸般の事情で、 むしろ再構成した方が良いだろうと判断して、平山瞳さんの語りという形で文章化してみました。

(1)創立の頃

夫正信が阪大に入学したのは1954(昭和29)年。
学生たちはお昼休みになると学舎の前の芝生でお弁当を食べていました。 食事が終わったら正信が「歌を歌おうや」って歌う会を始めたのです。
それを見ていて、秦さんが「せっかくこれだけ集まってるんやから、口伝えに歌うだけでなく、 ちゃんとした合唱団にせえへんか」と言って、「よっしゃ、その方が面白いやろな」ということで、 学舎の中に入ったわけです。
初めは女性がいなくて、薬学部の3人くらいでした。学生全体が男ばっかりでね。 文学部の人は入ってくれなかったので女性は薬学ばっかりでした。
Sさんがピアノが弾けて上手に伴奏してくれたから、下手でもなんとかなりました。
当時、北校合唱団というのがあったけれども、正信は、そういう従来の合唱団は頭になかったんです。 社会性を持った歌を目指していたので、相手にしなかったわけです。 南校にも合唱団がありましたが、そこの人たちは私たちから見てすごくお年寄りに見えました。 と言っても、きっと30代だったんでしょうけれど。というのは、戦争から帰ってきて復学されたり、 入学されたりしたということがあったから、随分大人の方もおられて、 労働運動と関係している方もあって、 フォークダンスを教えてくださったりしました。

folkdance
フォークダンスのイメージ
(本文とは無関係です)

踊りというのは活動の味付けのようなもので、女性の呼び込みにはとても役に立ちました。 私自身女学校卒だったので体操って言うのは全部ダンスだったんです。
だから、フォークダンスを見ていると教えている方も教えられている方もへたくそでね(笑)。 当時の中央合唱団の1年上の方が踊っているところに行って、「私にコール(声かけ)させて」と、 思わずしゃしゃりでてしまいました。
その夏(1回生のとき)、第1回の合宿が西能勢の月峯寺でありました。
そこでフォークダンスをするんですよ、アコーデオンもなしで。 正信がハーモニカを吹いてそれで踊りました。 夜になってもみんなやめないんですよ、 もっともっとっていう感じで。静かでただひたひたという足音がして。 真ん中で焚火をたいて、ハーモニカの音だけで。とうとう空が白むまで続きました。 オクラホマミキサとかアレキサンドルフスキーとか。 後者はちょっと上品でワルツターンがあり優美でとても気に入られました。
サツマイモを食べながら、よくあんなエネルギーがあったと思いますね。

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(2)くまんばち第1号

その合宿には40人くらい参加してました。参加者が感想文を書いて、 それを田川さんが冊子にしてくれました。 それが「くまんばち」第1号です。 くまんばち第2号 (内灘闘争に参加して歌声運動にふれて帰ってきた人たちによってFCが作られたと聞いているが、 という質問に対して)
内灘闘争に行ってきて、っていうのはきっと秦さんや安田さんでしょう。 でも、夫が秦さんと二人で阪大中央合唱団を作ったのはそれよりも早かったです。
夫は神戸高校で合唱をやっていたので、一応譜も読めるし、 楽譜なしで労働歌ばっかり歌ってるのでこれはあかんと思って楽譜もちゃんと作ったんです。 初めは「青年歌集」なども使いましたが、自分たちが歌いたい歌を楽譜にして歌おうやないか という風にしていったんです。 それがフロイントコールの前身の阪大中央合唱団です。 (「歌集」第1号あり)
夫のガリ版刷りだと思います。歌いながらシャッシャッと、フリーハンドで書いていくんです。 ものすごく速いんですよ。
私が1回生の時(1955年)に阪大中央合唱団としての形が整ってきたんですが、 その後中央合唱団って言ったら、 東京に同名の大きな組織があってその下みたいな感じがあるので、 秦さんの提案でフロイントコールって命名したと思います。 それが58年なので、中央合唱団として活動した時期が3年くらいあったと思います。 日本のうたごえ祭典にも行きました。

(3)平和運動とフロイント・コール

その頃、田川さんがとても料理が上手で、といってもほんとうに食べ物がない時代でしたが、 そこの家にあるものを使って、 集まっている人数分作るという賄いの天才的な才能を持っていました。 (注・田川さんは、FC草創期の有名な方であると同時に、今も様々な活動をされていて、 賄いという特技の方は、 黒テントという劇団の賄いをされていて、レシピ集も発行されているとか)
第二次大戦中と戦後、私たちはほんとうに飢えていました。 小学校の時、運動場を耕してサツマイモを作りました。 あんな硬い土を 小学校の1年生がよく耕せたものやと思うと自分の孫と重ね合わせて涙が出てきます。 男の子なんかは、蛇を捕って食べていました。 パンと頭を踏んでナイフで皮を剥ぐとピンクがかった白い身が出てくるんです。 結構美味で、焼くとスルメのような味でした。 おかゆもタンポポの若葉や蓬やリョウボ(灌木の葉っぱ)の中にお米が浮いているようなもので 渋くて食べられませんでした。
青年歌集 戦争反対っていう言葉よりも、戦争というのは飢餓ということなんだと真っ先に頭に浮かびます。
私たちが中央合唱団を作った頃はほんとうに反戦、戦争絶対反対という気持ちがものすごく ありましたね。 「アカ」っていわれましたが、赤だろうが黒だろうが戦争には反対せないかん というきもちは、こういう体験に根ざしているのです。 もう一つの正統でアカデミックな合唱団(北校合唱団)があっても目もくれず、 戦争反対の歌やったり、労働歌やったり、メッセージ性がありました。
そのうち私たちの方も合唱団としての形を整えていきました。技術部(後の音研?)を作って、 パートリーダーや指揮者、サブコンダクターで構成、指揮者は2人で選挙で選びました。
初めのうちは、合宿はよくしたけれど、発表会はしませんでした。
FCの3原則は夫が2回生の時の最初の合宿でできました。タコ足大学の悲しさ、 当時は教養の2年が終わるとフロイントは卒業です。
そこでミール混声合唱団(ミールはロシア語で平和の意味)を作り、 女声部が足りないので阪大病院の看護婦さんを誘いました。 練習場所は、中之島にあった理学部の階段教室を使わせてもらったり。長く活動を続けましたね。 FCの発表会にも出演しました。
小泉さんという方がいて、FCからミールの時代までずっと一緒に活動しましたが、 私たちはよく議論してそれで人間関係がぎくしゃくしなかったのは彼の包容力のおかげだと思います。

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(4)秦さんのことなど

私たちの結婚式のことをお話しします。
私たちの結婚式は秦さんが全部プロデュースしてくれたんです。 私らが会費制結婚式のはしりでしょうね。私らには一銭も出させなかった。 新婚旅行まで秦さんが全部手配してくれました。行き先から、何から何まで。
森ノ宮の教員会館で式をしたのですが、その時にリンゴを二人の間にぶら下げて 両端から食べていくんですけど、 それを揺らしてね。そんなことも全部秦さんが考えたんですよ。
動画(ムービー)も秦さんが撮ってくれて、親に見せにいってくれた。 でも私らはもらってないの。もう亡くなってしまったから行方不明です。
(注:秦さんは後に関西の歌声運動の中心になり、その後秦音楽事務所を作り、 フォークル、中川五郎、高石ともや、五つの赤い風船、岡林信康などの活動をプロデュース。 晩年は古代史の研究家としても活動され、2003年3月に亡くなりました。)

(5)貴重な資料

自分たちも、何回もの引っ越しにもかかわらず、たくさんの楽譜や資料を持っていた。
近年夫が倒れて、もうだめではないかということだったらしく、万一の場合に備えて、 家の中を整理したときに、ずいぶん処分してしまった。 私自身も夫がここまで快復してくれるとは思っていなかったので仕方がないこととはいえ、残念です。
第2回発表会 また、夫が貴重な楽譜を残したくて、パソコンに向かい始めたが、手が自由に動かないし、 あまりにも一生懸命にやりすぎて、 身体に悪いということも心配で、結局やめてもらいました。
でも、この度皆さんが資料の整理をしてくれるからということで、そのときの友だちに電話して、 手持ちの資料を提供してくれるように呼びかけました。 中には夏休みに捨てたところやのにって言う人もあったり、処分したいと言いながら、 結局、必ず返してねと言われたり。みな、思いがあるから…。
もっと早く始めていたらよかったと悔やまれます。 でも、思いを引き継いでくださるかたがこんなにいらっしゃって、ほんとうに嬉しいです。

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おわりに

楽しい会話を交わしながら、集めていただいた資料・楽譜を拝見していくうちに、 組曲「砂川」の楽譜(懐かしい青焼きコピー)が出てくると、 お二人の合唱が始まりました。
このサイトで組曲「砂川」(第11回発表会の演奏)が聴けます。
きちんとハモっていて特に瞳さんの高音部の美しさ!70ン歳とはとても思えませんでした。
当時の楽譜や「くまんばち」は木彫りの版画が施されていて、 それは大神さんという方の手になるものであるとか。

資料の保存について

古い資料にわくわく 資料は、「Repartry」を中心とする楽譜集と「くまんばち」に限定して 持ち帰らせていただく。
コピーではなく、カラー写真に撮りデータとして保存する。
当面、ホームページを作ってそこに蓄積していく。 ただし、パスワードをかけるというようなかたちで内部資料として保護する。
(これはすぐに池さんが実行してくださいました。)
必ずしも、「本」にしなければならないということではない。 またその場合は、実行委員会を作って、出来るだけ多くの方々に呼びかける。
お話がまとめにさしかかった頃、すでに2時間以上経過。重病から快復された正信さん、 そして体調が万全ではない瞳さんにご負担をおかけしたことに気づき、 娘さん宅を辞することにしました。
雨はやむどころか、降り続いていて、お言葉に甘えて、娘さんに駅まで送っていただきました。 ありがとうございました。
私たちそれぞれの心の裡にあるフロイントコールへの思いを数十年の歳月を越えて 共感しあった喜びをほのぼのと感じながら家路につきました。
平山正信さん、瞳さん、いつまでもお元気で。
次の同窓会を京都で開催すればお会いできますよね!
なお、この数日あと、同じ年代の中村允人さんからも資料の提供の申し出がありました。

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